神戸生まれ。
神戸・洋菓子店「ダニエル」に8年間勤務。
その後、京都・お菓子教室でアシスタント講師などを務める。
2010年にアトリエ「甘空」設立。
大阪、本町クッキングスタジオ「シェリプロ」講師や
「フロレスタ キッチン コドモ」のシェフ兼開発顧問に就任。
2018年に芦屋 宮塚町に「amasora」オープン。
全国各地の生産者を訪ね、吟味した食材を使用し、
素材そのものの味わいや力強さを大切にした『自然派料理』を提唱。
私は子供の頃からお菓子作りが大好きで、作っては家族に食べてもらいそしてみんなから「美味しいね。」と声をかけてもらうことが何よりも嬉しいことでした。両親と三人兄弟の長女に生まれ育ち、地元の大学に進学して六甲アイランドにある神戸ファッション美術館に就職しました。仕事自体は楽しいものでしたが、子供の頃からの夢だったお菓子作りを忘れられず3年余りで退職して当時一番好きだったお菓子のお店、中村道彦シェフ率いる御影ダニエルの門を叩きました。
私が育った街、芦屋にはたくさんのお菓子のお店があり、日本の中でもこのエリアはお菓子の激戦区で、私にとってパティシィエールは身近にいるけれど雲の上の憧れの職業でした。採用はしていただいたのですが、製菓学校を出ていない私にとっては知らないことだらけでした。
それでも朝早くから夜遅くまで、大好きなお菓子を毎日作ることはとても楽しいことでした。食べ物ですので気を抜けない、本当に大変な仕事でしたが、たくさんの仲間に囲まれて仕事が苦になったことはほとんどありませんでした。
それより、何にもましてダニエルでは中村シェフの妥協をしない姿勢と、常識はずれの強靭なクリエイションを、目の当たりにして本当に大きな影響を受けました。ともかく無茶振りが多くて途方にくれるのですが、それでも最終的には私たちが思いもよらない独自のものを作り上げていくシェフの姿をいつも見ていました。店先で見るお客様の優しい笑顔を、見えないところでこのような強靭な刃物のようなクリエイションが支えていることは何よりの驚きでした。美味しさの重要なファクターの一つが強靭なクリエイションであることは、私がダニエルで学んだなかでも最も重要なことかもしれません。そのような環境の中でお菓子作りを日々重ねるなかで私にとっていつの日かそれはスタンダードな感覚となったのです。
ダニエルを8年余で退社し、少し休養を取るために1年ほど旅行したり映画を見たりしていましたが、友人とレストランに行って食事するうちに今度は料理に興味がわき話題になっているレストランに足を運び、今まで貯めた虎の子の貯金も使い果たして本当に沢山の料理を食べました。レストランに足を運びシェフに話を聞いたりしているうちに、お菓子から料理への興味はますます強くなっていきました。何よりも食べることが好きでそこから興味が湧いたのか、いわゆるガストロのミーの世界、星付きレストランに通う事で美食と言うものの味と、それに伴うたくさんの事を知識として学んでいきました。今から思うと変な話ですが高いお金を払って食事をするのでなかなか同行する人がいなくて一人でレストランに赴くこともよくありました不思議なものでそのタイミングで当時顧問をしていたネイチャードーナツのフロレスタが、新しい自然派料理のレストランを開業するという話があり、今度はそこで料理の担当をすることになりました。
同時期、大阪はグランフロントのオープンを間近に控えシェフが足りない状況であったのと、素材を見てからメニューを決めるというスタイルがプロのシェフにはあわなかったのか、とにかくシェフが他にいなかったこともあり、料理に関しては未経験であった私の、料理への道の第一歩は偶然が重なりここから始まりました。レストランの規模は50席。「究極のファミリーレストラン」というコンセプトで素材探しから始まりました。
そこでは既製品はほぼ使用禁止。メニューもオリジナルに限る。生産者の方々からの直接仕入れ。大きなチャンバーも設置され、たくさんの素材が運び込まれました。山菜など日本古来の地方に眠る素材も視野に入れたレストランは今の「amasora」に続くコンセプトで、私たちの未来である子供たちの新たな食文化を作ることを念頭に置き「CODOMO」と名づけました。
2012年にマガジンハウスから出版されたカーサブルータスの別冊である「カリフォルニアらしさの最新」という特集でアリス ウォーターズのシェ・パニーズが紹介されていたことがあり、日本でもこのようなシンプルなレストランがあればいいなという思いがずっとありました。その後KINFOLKなどの出版もあり私が「CODOMO」のレシピを開発する中で、食文化というものはスノッブなガストロノミーが作るのではなく「シンプルで良質なライフスタイル」の中で育つものだという考えの中で、私なりに料理に向き合うようになっていきました。その背景には有元葉子さんの書物の影響があります。月に一度の美食ではなく、毎日のご飯のクオリティーを考え直すことに自分の進むべき道があるように思いました。
今から思い直すと私はイタリアンやフレンチなどの正統派な料理をそもそも学んでいなかったので、一般的な料理の常識が無く、全て一から考えて作る以外の方法しか知らなかったのです。とにかく試行錯誤しましたがその時にたくさんの失敗をしたことは私にとって大切な経験となりました。レシピは最初から存在するのではなく、旬、素材の生まれた気候風土、バクテリア、水、などの自然環境とお客様や生産者様などの人を考慮しながら生まれるものだという考えに徐々に変わっていきました。今では人が作ったレシピも全く見なくなりました。私にとっては興味ではなく、意味がないものであるからです。
2014年「 CODOMO」 はオープンしました。場所は堺でした。芦屋から通うのは大変であったため、当初の顧問契約の3カ月はホテル住まいの予定でしたが、お菓子と料理の両方を作っていたのと思っていたより大変で家に帰る暇もなく、最終的には3年間におよぶホテル住まいを余儀なくされました。それでも時間を見つけては生産者のところに足を運び、自分が調理する素材がどのような環境で育つのかを見て回りました。そしてその頃、高知でシードバンクを主催していたジョン ムーアさんからたくさんのことを学び、料理と自然の大切な関係性に気づきました。できる限り料理は自然から近いところにないといけないという思いが大きくなり、自分なりの料理法が次第に見えてきました。
2年目には関西の出版社からレシピ集(フロレスタファーマーズキッチンCODOMOのネイチャーごはん、京阪神エルマガジン社)も刊行され料理に対する考えも徐々にまとまり、料理を作る方法も自分自身の中で固まってきました。本を出すことで頭の中の方法論が自分でも明快になり、その後に新しい生産者さんのところに足を運ぶ際には、CODOMOの世界観を理解していただくためにこの本はとても役に立ちました。
私が「CODOMO」のオープンに際して、最も重要視した基本となる素材は塩と油でした。塩に関してはそれ以前から好きで足繁く通っていた高知に、田野屋塩二郎さんという方がいて全く火を入れずに天日塩を作っておられるという話を聞いて使いたいと思っていました。ただ気難しい方で中々会ってもらえないという話も聞いていましたので、どうしたものかと思っていたところ高知の知人がたまたま塩二郎さんを知っていて紹介してくれて、なんとか塩は確保できました。塩二郎さんの塩は期待していた以上に美味しいもので、塩自体の味だけではなく、素材本来の味を本当に引き出してくれるものでした。
次に探したのはオリーブオイルです。当時手に入れることができるものは可能な限り試し、理想とするものを探しました。美味しいものがあるにはあったのですがとても高価で、店で使える価格ではありませんでした。そのためイタリアにいた知人の計らいにより現地で大量に仕入れて空輸することになりました。日本にも良いものがあるのですが料理に使うとどうも自分のイメージと違う味になるので結局、使わなくなりました。
あくまでも素材を引き立てるための素材と考えてオリーブオイルは選びましたが、やはりギリシャ、イタリア、スペインなどのものは背景となる食文化そのものが日本と異なるのかもしれません。素材の一つとして塩とオリーブオイルは選びました。
そして野菜は北海道瀬棚町のソガイさん、小麦は十勝のアグリシステムの伊藤さん、山菜は温泉町のにいさん、一人一人の生産者さんに会うことから料理で使う素材を見つけていきました。生産者の方々は、みんなそれぞれ独自の考えで自然に接していて、現地に赴きその人たちに会うことで、私は本当に面白い体験を一つ一つそしてたくさん重ねる事ができました。そしてそこからたくさんのことを学び考え、自分自身が作る料理の概念を徐々に固めてきました。
レシピ自体は判断とクリエイションが大きく働きますが、料理自体はレシピ以前に、素材を取り巻く文化や環境や自然など、厨房ではなくむしろ自然環境やその土地や風土で作られていると今では思っています。そして発酵などのバクテリアが作用して、素材の持つ栄養分を身体にスムーズに取り込む方法がこの国には脈々と受け継がれていることを知り、麹や乳酸菌を強く意識しながら料理に向き合うようになりました。
八百万の神という言葉がこの国にはありますが、バクテリアなどが作用して美味しくなる事を八百万に神の仕業として考えていたのだろうと思います。また古事記の中には排泄物から神が生まれるくだりがありますが、自然界の中では動物の糞の中から種子が発芽して植物が育つことは決して珍しいことではありません。このようなとてもエレガントな日本独特の観察眼と感性があってこそ、本当の意味でのクオリティーオブライフ、そして日常の美味しいご飯は向上していくのではないでしょうか。
子供の頃から食べる事が大好きで本当にたくさんのお菓子や料理を食べてきましたが、今まで私が感じた「たくさんの感動」を今度は私の手で人に伝える事ができればという思いがますます強くなっていきました。料理もお菓子もクリエイションによって作られていてそれが人に感動を与える事ができるのであれば、それは芸術と呼んで差し支えないものだと思っています。でも私が本当に作りたいと感じているものはそうではなくて、自然や環境、気候風土、生産者の人たち、海、山、川、バクテリア、大陽、月など森羅万象が一つの輪になって存在しているような真ん丸の食べ物です。そして何よりもお客様の「美味しい!」とい言ったときの笑顔は私にとって何よりも嬉しいことです。
食べる人、作る人、生産者さん、そして私たちの未来である子供達、ご飯を通じて感じる喜びは私たちだけではなく未来への安心であると思います。私たちが標榜する「自然派料理」とは自然からたくさんのことを学ぶことで、未来への安心を作るための料理だと考えています。ミトコンドリアイブという女性が太古の昔にいたと聞きます。その女性は現存するすべての人類の母親に当たるDNAを持っていたというのですが、その女性が我が子に授乳し、次に今と同じように何かしらの手を加えて我が子に食べ物を与えたはずです。噛み砕いたのか、あるいは手でちぎったのか。そして愛おしい小さな生命に与えたものこそ料理の始まりで、それこそ私が作りたい料理のイメージです。当時、言葉というものがあったのかは知りませんが、愛情と料理はおそらく同じ意味であったと思っています。
太古の昔、草原の真ん中でミトコンドリアイブがやっとの思いで手に入れた食べ物を、愛しい我が子に与えるために行った無償の愛情に支えられた行為、すなわち「料理」によって地球上に今でも私たちはこうして生きているのです。何万年の長い間、私たちは料理というバトンを先祖から、脈々と受け取りながら生きてきたのではないでしょうか。そして今度はわたしたち大人が、そのバトンを子供達に手渡すのですが、そのバトンは本当に手渡しても大丈夫なものなのでしょうか。
日本の食べ物は戦後、激変します。市売されている食べ物の貼られているラベルを見ればわかりますが、本当にたくさんの添加物が入っています。例えば「おにぎり」であれば、本来は塩と米と海苔と梅干しだけですが、コンビニなどで流通させるために、保存料、着色料などのたくさんの添加物が混ぜられ、それは食べることにより私たちの口から体内に入ります。その中には発癌性があるものや長期的な身体へのデメリットが検証されていないものがあります。また多くの保存料は菌の増殖を抑えるもので、それを食べると腸内の在住菌に大きなダメージを与える恐れもあり、結果的にそれはアレルギーなどの免疫不全を引き起こすと考えられます。
また、F1の種から育てられた野菜を摂取すれば雄性不稔のDNAを摂取する恐れもあり、このようなことが身体や私たちの遺伝子にもたらすデメリットは現段階ではまだ正確にわかっていないのが現状です。化学薬品から作られる添加物や、遺伝子組換え作物、そしてこれらのものに頼る食文化は戦後、顕著に飲食業界のスタンダードとなったことで、私たち日本人が長い間に築いてきた従来の食文化とは全く異なるものです。また飲食産業の中ではとにかく安い食品への需要が高く、食品の持つ危険性より安い価格に重点が置かれ、安全性や味覚よりも流通性や販売促進が論点となりその結果添加物が巷に溢れ、食品の安全性はないがしろにされるという私たちが守り続けてきた食文化にとって大きな危機が訪れています。そして何よりも子供達の味覚が本当の素材の持つ美味しさを感じることができないような事態になれば、それはこの国の食文化の崩壊を意味します。味覚というものは身体の声を聴くことではないでしょうか。本当の美味しさは「身体に必要です」という声ではないでしょうか。
日本の食事情を変えたのは、20世紀初頭に起こったグローバリズムで、それまでは化学薬品や遺伝学、冷蔵庫などの保管設備も自然に頼っていて、長いあいだ極端な変化がなかったのですが交通手段の発達や植民地政策などの影響で食べ物に関する環境は激変します。特に日本では戦後、敗戦国という状況でアメリカからの小麦や牛乳が日本に持ち込まれ、さらに生活様式の変化から日本食から洋食へと変化していきます。また高度成長期を迎え外食産業が発達し、そして80年代バブルの崩壊以降、食べ物は安い方が良いというベクトルが外食産業の暗黙のルールとなり、仕入れの方法、加工技術、価格競争などの、私達から見れば負のベクトルが飲食業界を席巻しました。今ではその安価な食事を求めて海外からたくさんの人が日本を訪れますが、また一方では日本はガストロノミーの世界でも、東京は世界で一番星付きのレストランが多いという状態が表すように、極端に二極化した状態なのです。
かたや、安いが安全性に不安がある。かたや、安全かもしれないが、高価で限られた人にしか食べることができないという、私たちにとって最も大切な「日々の普通のご飯」がないがしろにされるという不自然な状態になっています。日本の企業というものはとても真面目に安い食べ物を作り続けてきました。一つの食べ物を作るのにもたくさんの行程を経て分業化が進みましたが、その行程に数多くの添加物が入り込んでいます。そしてそれらを工業化された工場で食品として加工するのですが、輸送費や包装費、行程各所に発生する経費などを鑑みれば安価に販売することは容易ではありません。まずは食品に対するこの国での位置づけを含めて色々と考え直すことが必要な時期に来ているのではないでしょうか。「日々の普通のご飯」の中に流れる食文化こそがその国の本当の食文化ではないのでしょうか。
戦後、無計画に変化してきた食に関する方法論をこれから変えることは大変なことです。同様にガストロノミーの世界と日々のご飯の間の溝を埋めることも必要で「体によくてしかも美味しい」という私たちの生活の根幹をつかさどる食生活のクオリティーを上げるために具体的な方法を考えて、そして実践することが必要です。
食べ物を作ることについて考えるなかで、私達が重要視するものが少しずつですがわかってきました。人によってその方法は違うと思いますが私たちは次に述べるようなことを重要だと考えています。
私たちは本当に長い間、温室や冷蔵庫と無縁の生活を何万年の長きにわたり送ってきました。温室や冷蔵庫が普及したのは戦後でそれまでは旬と共に暮らしてきました。言いかえればそれ以外は無理だったのです。旬の食べ物が体に良いのは何万年もの長い間にそのサイクルが体に刻まれているからであり自然界のサイクルと人間のサイクルは同じであったのです。それを私たちは旬と呼び大切にして、そして俳句などでもわかるように季節の移り変わりを楽しんできました。食べ合わせもそうでかつての料理は秋の素材と、冬の素材を炊き合わせることなどはありませんでした。旬の食べ物と保存食を上手に組み合わせることで私たちの食文化は成り立っていて、それは長い間に培われた食べ物を通じて生まれた自然と人間の蜜月関係を意味し大切にされてきたのです。
料理にとって最も重要なものは素材で、それは食べた直後から私たちの身体の材料になります。私たちの体の中を通過するうちにタンパク質やカルシウムなどの栄養素だけではなく食物のDNAや付着しているバクテリア、酵素、など食べ物は身体だけではなく精神にも大きな作用をもたらします。 また私たち人間またの生き物の同様、食べることで地球との循環をはかっています。そのためにも生産者さんの元に足を運び、交流を深めることで素材に対しての信頼性と知識を深めることが食べ物にとって最も重要であると考えています。
田野屋塩二郎さんの塩は全く火を入れずに作られています。 海水をくみ上げ、それを数ヶ月かけて徐々に塩分を高めていきます。にがりやカルシウム、塩分などの凝固速度が違うため手で塩分濃度を調整して塩を作りますが、この方法では精製行程がないため出来上がった塩には多くの不純物が含まれています。一方、日本で普及した専売公社が行なったイオン交換膜法式では純粋に塩化ナトリウムのみを生成しますが、これは古来日本人が口にしてきた塩とは別物で身体に入っても排出されず、結果的に高血圧になるというデメリットがあります。
これではあまり食べる塩に適しているとは言い難い代物で、さらに食べ物について人がいかに無知であるかを意味するものです。塩に関しては塩田方式や様々な方法で作られますが塩二郎さんの作る塩は最も海水に近いもので不純物背あるマグネシウムなどがもたらす作用で、塩は体外に排出されます。またエスキモーが海獣などの動物製タンパク質のみを摂取しても高コレステロールにならないのは、海獣の内臓に含まれるタウリンがこれステロールを排出するからだと考えられています。
このように自然に近い状態で食べることで環境と身体のバランスを取る術は私たちのDNA の中に永い間に知らぬ間にできています。私たちが永い間にDNAの中に作り上げた「環境と身体の循環」を測る食べ物をもっと意識的に考えないといけない時期に来ているのではないでしょうか。
日仏合作のドキュメンタリー「千年の一滴、だし、しょうゆ」が2015年に放映され大反響をよびました。
麹は「アスペルギルスオリゼー」と呼ばれる菌ですがそれは日本の国菌に指定されている日本の食文化には欠かせない菌で、味噌、醤油、酒などをつくるためには必要不可欠なものです。ドキュメンタリーの中で京都のもやしや(麹屋)菱六さんが紹介されていますが、当時高知から塩二郎さんを呼んで一緒に京都の菱六さんまで見に行きました。塩二郎さんの塩と菱六さんの麹で塩麹をつくるためだったのですが、塩二郎さんは麹室から出された白くふわふわな麹を見て「俺の塩と同じだ。」と言っていました。ジョンさんにその話をすると「神社!」と言っていました。
このように日本人はパスツールが顕微鏡を発明する以前から目に見えないできないバクテリアと共存してきた歴史があります。麹菌以外にも漬物などの発酵物にはたくさんの乳酸菌が関わっています。納豆菌もそうです。このように日本人の味覚には沢山のバクテリアが関わっています。 そしてこのバクテリアがもたらす味覚は日本人の中に美味しさとしてDNAの中に深く刻まれているのです。
料理を考える際にその背景となるパラダイムに「Farm to Table 」という言葉があります。農園と食卓を直結させることを意味しますが、百年ほど前の世界ではそれは当たり前のことでした。グローバリズムや資本主義が発達し分業化が進んだことでそれは崩れさり、今では農園と食卓の間にはたくさんの業者や手順が介在しています。
このような中間のブラックボックスをなくすために作られた言葉ですが、今ではそれではもうダメな時代に来ています。
私たちが考えなければならないことはSoil, すなわち土と、さらに食卓ではなく私たちの身体の根源であるDNAまでを念頭に置いた考えで料理をしなくてはいけない時期に来ていると考えています。
私はジョンさんと山で土を食べたことがあります。その時知ったのは、そもそも徒歩圏内の地産地消について私たちが最も重要視するのはその環境と私たちの腸内の在住菌が捕食によって一致し、安定状態になることです。このような状態は近代以前の食環境ではごくごく普通のことでした。
しかし今ではFarmの先のSoilにも農薬や肥料の大量投与による汚染で在住菌が壊滅状態であるかもしれません。またそこに撒かれるタネが遺伝子組み換え(GMO)であったり雄性不稔のF1種であったりすれば、私たちが考える食べ物としては意味がないのです。
人為的に作られた種子をスポンジのように死滅した土に肥料を大量投与し育てた野菜に宿るDNAを摂取すれば、それはやがて私たちのDNAにも悪影響を及ぼすかもしれません。顕微鏡も冷蔵庫もなかった時代、本当に永い間私たちは自然に寄り添って生きてきました。自然の恵みを食べることで自分達の子供たちに未来を託して生きてきました。このことを忘れることなく、料理を作らなければ私たちにとって意味はないのです。
Soil, Seed, Food, Us, DNA ,
この順序で料理を考えるべきではないでしょうか。
私が大好きな神戸の三つ星レストラン「カ・セント」の厨房にお手伝いに入らせていただいたことがあります。シェフである福本伸也氏はまぎれもない天才で、私などは足元にも及びませんが素材を見極め、大きな肉の塊に包丁を入れて切り分け、複数個の素材を私が思いもよらないような組み合わせで料理を仕上げていきます。その動きの中には迷いが見られず、まるで料理を司る神のような存在です。しかも食べて美味しい。厨房という空間の中で全てをコントロールして皿の上に芸術作品を作り上げるという芸当は天才であるとしか言いようのないものでした。
もちろん努力の賜物でもあるのですが、この世界はそれだけではダメで「神が与えし才能」がなければこれだけの料理は作ることはできません。言いかえれば食べ物に対しての脳の偏差が尋常ではないのです。
同じ料理を志すものとしては、如何しようも無い敗北感に襲われるのですが、むしろこのような芸術的な料理に出会うことで自分のなすべき仕事が見えてきた気がしました。それは「全てをコントロールしない」ということです。
人には男性と女性という性差が存在し、男の人は内在的に競技をしようとしますが、女性には子供に対する無償の愛情が存在します。むしろ全てをコントロールせずに、6割程度は予定して4割程度はバクテリアなどの八百万の神の力を借りるという方法が良いと最近では実感しています。私の持っている世界観は紛れもなく女性の性差に基づくものであり、それも「神が与えし才能」であることに間違いありません。
今一度、ミトコンドリアイブに想いを寄せて、料理とは無償の愛情を伝える手段であることを意識しながら作ることで、日々心休まる状態で料理を作ることができるようになりました。